先日、杉並区在住の70代のおじいさんから、
終戦直前の話を聞いたので、ちょっと備忘録。

杉並区というのは、富士山方面から東京へ入ってくる
B29の通り道になっていて、しょっちゅう大量の飛行機が
空を飛んでいたのだそうだ。
飛行機の影が道に大きく映り、それも何十機もいるから
道路は真っ暗になってしまう。
それが怖くて怖くて仕方なかった。

富士見ヶ丘にある旧NHK富士見ヶ丘運動場には
非常に高性能の高射砲があって、時々、敵機を打ち落とすことができたそうだ。
(この高射砲は米軍にも有名な存在だったらしく、
終戦後はあっというまに回収されたらしい)
あるとき、飛行機が落とされて神田川に墜落。
土砂が信じられないくらいに空中に飛び散り、
川沿いにあったおじいさんの家に降ってきた。
そのとき、彼は便所に入っていて、土砂で外に出られなくなって往生した。
それくらいの衝撃だったという。
飛行機を操縦していた米兵は美しい絹でできた落下傘で降りてくる。
木にぶら下がっていたところを、みんなで石を投げた。
米兵は当時、西永福の高千穂商科大学に設けられていた
捕虜収容所に連れて行かれたらしい。
物資のない頃だから、米兵の落下傘を盗んでシャツを作ったら
すごくよいものが何十着もできたと、おじいさんは嬉しそうに言った。

杉並あたりでは大きな空襲はなかったが、時折、B29が焼夷弾を落とすのだとか。
わらぶき屋根にはしごをかけて、消火をしようとしていた人が
おなかに焼夷弾の直撃を受けて亡くなったのだそうだ。
近所で亡くなったのは、その人ぐらいだったというので
下町に比べたら、かなり安全だったのかもしれない。
もちろん一般人が殺されてしまうのだから、普通の状況ではないけれど。

写真は1956年発行のスイス切手。スイス航空25周年記念。